2013年12月7日

予測(予報)と預言は異なります。

次の文は、最近インターネットを熱くしている「アイソン彗星」が何人かの予言者( ? )が主張したように、地球の終末論的な災害をもたらさずに、姿を消したことに疑問を抱いた方の質問に載せた返信です。



返信:

インターネットでは、「イエス様が「アイソン彗星」と一緒に来られる」という主張を広めて、毎日のように、これに関する投稿を書く人がいます。彼らはすでに、アイソン彗星は消えたという発表も信じられず、いまだにこのような主張を放棄していません。

このブログでも、長い間アイソン彗星に関する文を扱ってきたし、また、これついて扱ってほしいという要望も何度も受けてきました。しかし、その間、これに関する投稿を自制してきたのは、今回のアイソン彗星に関する予測も、過去のロンドン五輪テロに関する予測のようなハプニングで終わる可能性が高いと見たからです。

このブログの検索欄で「アイソン」と入力すると、おそらく、これに関する記事は、11月に書いた以下の文しかないことを確認することができます。その内容も、アイソン彗星の登場が、イエスの再臨や地球に終末が迫っていることを示す決定的な証拠だという主張ではなく、注意して見なければ、「天のしるし」の一つだ、という内容であることが確認できるでしょう。


「予測(予報) 」と「預言」は、異なります。予測は、天気予報のように、いつでも間違っている可能性を内包しているのです。しかし、「預言」は、聖書に記録された神の言葉であり、変改できないものです。

いつでも間違っている可能性を内包した「予測」を「預言」のように主張したとき、世界を惑わす偽預言者となってしまいます。しかし、間違っている可能性があるという理由のため、起こりうる事件について「予測(予報) 」を放棄することも、やはり正しい態度ということはできません。 100 %確実な情報のみを転送する必要がある場合、天気を予測する天気予報は、最初から不可能なことです。

地震による津波が発生する確率は100%ではなく、わずか10 %であっても、予報し、これを発表します。予報が間違っている場合、非難は受けますが、予報を放棄した場合、人命が犠牲になることが発生してしまったら、予報をしなかった方が、人々が流した血の責任を負わなければならないからです。



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